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                         昨日までの朝のように

 

K駅で

満員電車から

吐き出されて

大通りを 急ぎ足で

 

ちいさな郵便局を

通り過ぎて

ふたつ目の信号を

右に曲がっても

 

もう 会社は

ありません

 

昨日までの朝のように

妻とこどもが

笑顔で

見送ってくれても

 

もう

おとうさんの

行くところは

ありません

                                                                            

 

 

新年も4日目。

本日が仕事始めという諸兄も、多くいらっしゃるだろう。

ご苦労様です。お疲れ様です。

かく言うぼくは、まだ、体調快復の兆しがなく、もうすこし、自宅療養が必要みたい。

 

 

 

 

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この秋、東京・上野の森美術館で好評を博している「怖い絵展」(10月7日~12月17日)の超目玉作品『レディ・ジェーン・グレイの処刑』である。この絵の、どこが、あるいは何がそんなにも怖いのか?一見すると美しくも映る。絵の横に少々長めの解説というか、エピソードが「怖い絵」シリーズの中野京子氏の解説がついていて、なるほどと腕を組んでしまう。策略によって16歳の若き女王が処刑されようとしている。手探りで自らの首を落とされる断首台の位置を確認している。その下には、血を吸い込むための藁の山が敷かれている。右側に断首する斧を持つ処刑人。失敗した時のために、腰にナイフをぶらさげている。この絵の怖さは、女王が、わずか16歳で、どうして、自分がこんな目に遭うのか、おそらく理解できていないところにあると思う。

ぼくは、夏の兵庫会場でお先に鑑賞しているが、女王の在位期間が、わずかに9日間だったことも、強く印象に残っている。

その他、記憶に残る作品を2,3記しておく。むろん、個人的にだ。

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『チャールズ1世の幸福だった日々』

この晴れやかな日の、家族そろっての舟の旅。平和すぎる人々の表情。

しかし翌日、革命が起こる。

のちにチャールズ1世は囚われの身となり、公開処刑される。

革命の「か」の字も見せない、のどかな風景が、より未知への恐怖感をそそる。

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オデュッセウスに杯を差し出すキルケー』

女性がキルケーで背後の男がオデュッセウス。実は、この美しい女性キルケーはお酒を飲ませることによって男を獣に変えてしまう魔女なのだ。

「美」と「恐怖」は表裏一体ということか。

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『クリオと子供たち』

子供たちは、まるで映画「サウンド・オブ・ミュージック」を彷彿させる。しかし、その子供たちの視線の先には、自害している母親らしき人物が。

不条理極まりない絵だが、作者は最初、女神クリオが子供たちに、本を読み聞かせている風景を描いていた。しかし、時は第一次世界大戦中で、創作の最中に作者は実際に戦争で、子供を失ってしまう。

絶望感が原因で、このような不自然な絵が出来上がってしまったということだ。

 

展示されてある多くの絵を見て、何も怖くないというひともいるかもしれない。

たしかに、視覚的には、むしろ美しい絵のほうが多い。

しかし、その歴史的背景やシチュエーションを知ることによって、はじめて「怖さ」が発生するのかもしれない。

ぼくは、使わなかったけれど、女優の吉田羊さんのナビを使うと、よりその絵の深さが判る。

近郊の方も遠方の方にも、超おすすめの展示会。芸術の秋ですぞ。

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唐突だが、「水晶体再建術」というオペを行った。左右両眼共である。

まあ、平たくいうと白内障のオペなのだが、これはきつかった。

さかのぼること、4,5年前から、眼に違和感を覚えるようになった。うすっぺらなすりガラスを介して、景色が見える、あるいは、ぼんやりとしか映らない。それでも、車の運転には支障はなかったし、毎年の健康診断でも視力は両眼共1・0を保持していた。

しかしながら、気にはなっていて、2年前の冬に近くの眼科クリニックを訪れた。

視力以外は、はじめて体験するような検査ばっかりでとまどった。要するに、眼球に直接、検査機器をくっつけたりされたので、拒否反応はあった。で白内障が進行していることが判明し、総合病院の眼科に紹介状を書かれて、オペを行う方向で話は進んだ。

白内障の進行を遅らせる点眼薬も存在するが、高齢者ならまだしも、ぼくのような年齢では、いずれにしても、オペはおそかれはやかれ、行うべきだと主治医の勧めもあり、決心した次第である。眼科医というのは、圧倒的に女医が多い。やはり、女性のほうが指先が繊細なのかなあと思ったりもする。主治医が、中森明菜の若い頃そっくりで、執刀も担当してくれるということで、そのことが、オペに拒否感を覚えるぼくの背中を押したことも否めない。もちろん、ぼく自身が、こころの病を抱えていることも、パニックを起こしやすい精神状態も話してあり、そこのところは、精神科医と、頻繁に連絡を取り合ってくれたようで、可愛い声で「安心してください」と諭された。

しかし、入院説明会の時、オペの内容を聞いて、「このまま、どこかへ逃げだしてしまいたい」恐怖を覚えた。後悔した。他の患者さんは、かなり、ご高齢の方ばかりでちゃんと説明を聞いていないような気がした。白く濁った水晶体を取り出して、人工のレンズをいれる。オペは20分もかからないという話ではあったが、ぼくには点眼麻酔だけで、眼球にメスを入れる、そして、その状態を把握しながらオペが進むということが、どうしても受け入れることができなかった。こんなのアリかという気持ちだった。

説明会の部屋に、目玉のおやじのポスターが貼ってあったのが妙に印象に残ってる。

片眼のオペで、3泊4日の入院。一週間空けて、また3泊4日の入院。

ネットなどを調べると「日帰り手術」を謳っているクリニックも多い。しかし、ぼくの体験から、それはありえないだろうと思う。オペそのものは20分で終えても、あとのケアが大変であるからだ。3日間の金具の眼帯。入浴禁止、特に洗顔、洗髪は主治医の許可が出るまで禁止。3時間に1回4種類の点眼薬の投与。これも、種類ごとに5分ずつ開ける。

よほど、理解のある会社の事務の仕事オンリーというひとなら、あるいは、そういう選択肢もあるかもしれない。

新しくできた総合病院なので、設備も最先端のものらしい。

保健で受けられる単焦点レンズでは、手術後は近くのものが、ぼんやりとしか見えなくなり、中遠はよく見えるようになる。保健外だが、多焦点レンズというオプションもあって、微妙な眼の筋肉の動き、調整も可能で、極めてナチュラルな代物だ。しかし、反面、不具合の症例も多く、いうまでもなく、ぼくは、前者を選択した。

その時点でも、まだ、眼球にメスを入れるという、受け入れがたい事実に恐怖を抱いて、睡眠薬を服用しないと眠れない状態にあったが、「まあ、大丈夫さ」とどこか、たかをくくっていたところがあった。

入院の翌日の午後にオペと決まっていた。1回目のオペは右眼から。

TBSの「ひるおび」はSMAPの解散騒動を報じていた。

看護師が現れて、車椅子に乗せられ、オペ室に入る。人間の頭蓋骨がきっちりとはめこまれるようなベッドがあって後頭部を埋め込むように、上向きに寝かされた。

ライトの浴び方などは、歯科を彷彿させる。

片眼だけ穴の開いた布を被せられる。

点眼の麻酔薬をいやというほど、落とし込まれ、脱脂綿で眼球を磨くように、消毒された。この時点で、ぼくは、もう、白旗を挙げていた。手足は強く縛られているし、大声を出してしまうかもしれない。いや、この場合、大声を出して助けを求めたほうが、よほど自然な状態だった。

もう、すでに、オペは始まっている。メスが眼球めがけて、近づいてくる。

このあたりから、記憶は断続的に途切れている。

メスの入った、痛みはないが、感触はある。

冷や汗は流れっぱなし。発狂しそう。

そんな中でも、「は~い、眼を右に動かしてください」などの指示がある。

恐怖で動悸が飽和状態になって、心電図の波形が異状を示すたびに「もうすぐ終わりますよ」と激励の声が返ってくる。

一瞬、目の前が真っ暗になる。そして、また、明るさを取り戻せば、オペも終わり。

一般病棟に戻されて、中森明菜似の主治医が、ニコニコしながら、様子を見に来てくれた。「きょうは、よく頑張りましたね。5回くらい、気を失っていましけど」って。

オペから2日後、包帯と眼帯をはずす。世の中、こんなにも明るかったのかと実感した。よく見えすぎて、たとえば、新聞紙のいちばん小さな文字に「毛」が生えているのがわかる。これは、インクのにじみだ。

しかし、日がたつにつれ、視力も落ち着いてくる。

退院時の視力は両眼共、1・2だった。が、裸眼でいくらというのではなく、眼鏡をかけて、いくらという矯正視力を基準にしている。

オペから2年近く経った今でも、ドライアイがひどく、点眼涙液が手放せない。

オペの前日に、主治医に「先生、オペが終わったら食事に誘います」というと主治医は「待ってますよ」と笑ったが、5回も気絶したんじゃなあ・・・

 

 

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9月16日、台風18号の影響で秋雨前線が活発化するどしゃぶりの雨の

中、大阪城ホールで、毎年恒例の大阪開催のみのビッグイベント

「君と歩いた青春2017」コンサートが行われた。今年で9回目。

超満員の観客は、やっぱり、ぼくよりも、ひとまわりかふたまわり上

の世代のひとたちが、大半を占めていたように思う。

憶えている限りのセットリストを書き出してみよう。

 午後4時開演。

 夏の少女(南こうせつ・全員)
湘南・夏(伊勢正三)
オリビアを聴きながら(尾崎亜美)
天使のウインク(尾崎亜美)
九月の雨(大田裕美)
木綿のハンカチーフ(大田裕美)
ANAK~息子~(杉田二郎)

シークレットゲスト・べーやんこと堀内孝雄登場

戦争を知らない子供達(杉田二郎堀内孝雄)
遠くで汽笛を聞きながら(堀内孝雄)
花はどこへ行った(全員)
銀の指輪(姫野達也)
心の旅(姫野達也)

15分インターバル

シークレットゲスト・押尾コータロー登場

押尾コータロー伊勢正三とのギター競演。

戦場のメリークリスマス(押尾コータロー)

シークレットゲスト・杉山清貴登場

君の瞳はマリンブルー(杉山清貴)
二人の夏物語(杉山清貴)
海岸通(イルカ)
サラダの国からきた娘(イルカ)
なごり雪(イルカ・伊勢正三)
神田川(南こうせつ)
22才の別れ(伊勢正三南こうせつ)
ペテン師(伊勢正三南こうせつ)
あの人の手紙(南こうせつ伊勢正三)
お前が大きくなったとき(南こうせつ)
ささやかなこの人生(全員)
君と歩いた青春(全員)
今はもう誰も(堀内孝雄)
風(全員・杉田二郎が属していたフォークグループ・はしだのりひこ

シューベルツの名曲)

終演午後8時20分。

ゲストのべーやんは面白かったし、こうせつとイルカのMCは会場を

沸かせるし、杉田二郎の声には魅了されたが、もう、変えようがない

のかなあ。

以前も書いたが、マンネリ化は否めないし、歌もほぼ固定化している。

まあ、「夏の終わり」と「青春のころ」という大前提のテーマがあるから、

仕方ないのかもしれないし、年に一度のことだから、それだっていいじゃん

という想いもあるけど。ちょっと、複雑。という感情を今年も抱いてしまった。

 

 

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クリストファー・ノーラン監督の最新作なので、映画館に足を運んだ。

1939年9月1日ポーランドへ侵攻勝利したドイツ軍は、1940年5月10日オランダベルギールクセンブルクに侵攻、5月17日以降に北フランスを席捲した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。

まだ、アメリカは参戦していない。大戦初期の実話だ。

 ドイツ軍は戦車航空機といった新しい兵器を中心とした電撃戦を展開、その火力・機動力を集中運用する新戦法によって連合軍主力の後方を突破すると、ドーバー海峡まで駆け抜けてこれらを包囲し、ダンケルクへ追い詰めた。その追い詰められたイギリス軍・フランス軍約33万の兵士の大撤退劇(ダイナモ作戦)が描かれている。民間船舶によるイギリス本土への脱出だ。

のっけから大迫力の映像と息詰まる緊迫感の連続は見事である。

ひたすら逃げ惑う連合軍兵士の姿とスピットファイヤーとドイツのメッサーシュミットの空中戦が交互に描かれるだけなのだが、本年イチオシの映画である。主人公という主人公も登場せず、セリフが極端に少ない。だが、これがいいのだ。

撤退命令を下した当時のイギリスの首相・ウィンストン・チャーチルは後年第二次世界大戦という回想録を出し、ノーベル文学賞を受賞している。

第二次世界大戦」の中でも、ダンケルクの戦いダイナモ作戦のいきさつ、その後のノルマンディー上陸作戦に至るまで克明に描かれている。

重火器類などの運搬を諦めて、兵士という人員だけを優先的に撤退させたチャーチルの判断は、今以て、高く評価されている。

まっ、映画は、ポップコーンを頬張る暇も与えず、あっという間の2時間だった。

 

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実のところ、こころの調子が良くなくて、4日から10日間の「自宅療養必要」の診断書がでている。たしかに、数日前から、その前兆のようなものはあった。愛車に乗ろうとすると、急に足元がすくむような恐怖で一歩も動けなくなったり、空が視界に入ることに抵抗を感じたり、おかしいとは、思っていたのだけれど。3日には、頭と胴体が、まるで、離れているような感覚に捉われ、自分のからだが、自分のものだと実感できなかった。あとは、もう、激烈な気分障害にさいなまれた。もう、30年以上、おつきあいしている持病なのに、いざ、症状がでると持病に対して、正確な判断ができなくなって「なんなんだ、この感覚は」ということになり、いきつけのクリニックに診てもらう。

もちろん、これらの症状を、今なら、ひとつひとつ医学的に自ら説明することはできるが、症状が出てしまうと、そんな余裕など吹き飛んでしまう。

女性ドクターはいう。「詩を書いていきなさい。この病気は、〇〇さんのように芸術分野で活躍している人にとっては、必ずプラスに働きますよ」って。以前も書いたが、そのように、おだてつづけられ、詩を書いてきた。それの、くりかえしだ。

診察を終えて、自宅にもどると郵便受けに上の詩の文学コンクールの応募要項のチラシの入った封筒が投函されていた。6月頃から、別の文学賞への応募の誘いの郵便がひっきりなしに届いていて、その時までに、原稿用紙2枚程度ものを2作を仕上げていた。

チラシの蟹と水仙の文学コンクールは、10年近く前に応募して、大賞は逃したが、次賞の奨励賞を受賞した。1等賞好きのぼくは、満足ではなかったが、選考委員長が詩人の荒川洋治だったので、まっ、2番でもいいかという気持ちになった。

授賞式は福井県越前町で行われた。ひとりで電車に乗ることが困難なので、妻にも付き添ってもらった。会場のすぐそばは日本海。灰色の日本海は大荒れだった。空に、今にも落っこちそうな重たい雲が、どこまでもつづいていた。授賞式には似つかわしくない風景だったが、ぼくの精神風土と重なり合っていて、とても印象深く感じられた。

こころの症状も、軽くなったあたりから、ぼくの頭の中は、無意識に、この文学賞に向けての物語を紡ぎだしている。

病気休暇の満了日以降、実際に、文章化したいと思っている。

 

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9月1日、病院で検査を受けた後、京都へ向った。ロームシアター京都(旧・京都会館)のサウスホール(旧・第2ホール)で原田知世の「35周年アニバーサリー・ツアー・音楽と私in京都2017」と銘打ったコンサートが催されたからだ。サウスホールのキャパは712席で、非常に落ち着いた雰囲気の、木のぬくもりが感じ取れる中ホール。

19時開演。時をかける少女原田知世登場。

主に、セルフカバー曲を歌った。「ロマンス」ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ~」「うたかたの恋」とか、カバー曲の「年下の男の子」(キャンディーズ)「september」(竹内まりや)とかね。

MCなんかも、おしとやかで、ひかえめで、特にバンドのメンバー紹介のとき、ひとりひとりを「さん」付けで紹介していたのが、印象に残る。

バンド活動は女優業と平行して行っているが、彼女は、やっぱり、女優さんだと思う。そう認識すべきだと思う。表情が豊かだし、ファルセットが歌えなくても、音程がはずれても、歌詞をまちがえても、フライングして歌いだしてしまっても、全部、許せちゃうからね。覚えたてのギターも、恐る恐るバンマスに「合ってる?」なんて聞きながら、しっとりと歌を聴かせてくれる。まあ、それは、ファンの心理だろうが。

とにかく、可愛い!声もいい!

ラストアンコールはアコースティックギター1本の時をかける少女だった。