読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

f:id:tigerace1943:20150410115350j:plain

「詩集は売れない」

「詩人で喰っていけるのは、谷川俊太郎くらいのものだ」

というのが出版界の定説となっている。

つまり、詩人と称する、ほとんどのひとが、インディーズ・・・・高額な費用で自費出版し、しかも、世の中に出ないのが実情だ。だから、詩人と称するひとたちと出版社は、売るという概念があたまからない。詩らしきものが、たまったので1冊にまとめたい、あるいは記念に、あるいは名刺代わりに作るひとが圧倒的だ。

要するに、詩集を作るという作業が単なる「自己満足病」に罹患されてしまっているのだ。

ぼくのところにも、20年位前から、詩人と称する大勢の見知らぬひとから3,4日に一度くらいのペースで詩集や詩誌が送られてくる。「謹呈」とある。

しかし、その多くはいくら装丁が立派でも中身がないむづかしい言葉を紡いでいればいいと勘違いしている。これは作文、これは感想文、これはレポート。そんなのが悪いけど多すぎる。特に、詩のサークルや、協会に名を連ねている自称・詩人たちに、そういうひとは多い。「自己満足」が悪いというのではない。趣味の範囲で、書いていればいいだけのことだ。

たしかに、ぼく自身も詩を書いている。大きな文学賞をいくつとっても、あるいは、詩集がどんなにスマッシュヒットしても、一時的に大きな金額は手に入るが、それで、生活は出来ない。くやしいが郵便局で給料をもらって生業をたてているのが現状だ。

だから、ぼくは、自分のことは詩人だとは思っていない。

郵便屋さんでいい。

でも、ぼくは、まだ諦めていない。

たとえば、柴田トヨさんの例もある。98歳でご子息に勧められて「くじけないで」という詩集を自費出版した。100歳のおばあちゃんが詩を書いているということで、NHKがドキュメンタリー番組を組んだ。それがきっかけとなり、柴田さんの自費出版を受けた飛鳥新社という出版社は装丁を変え、作品数を増やしてマスコミに売り込んだ。

TVで取り上げられても、敬老精神があっても、やはりいい詩でなければ、だれも買ってくれない。しかし「くじけないで」は160万部を超え、100歳の記念に出した「百歳」を入れるとWミリオンである。

柴田トヨさんは、特異な例というかもしれない。しかし、どのような形でさえ、200万部以上売れた事実は変えようもない。詩集は1万部売れれば大ヒットという固定観念を抱いている出版社は何か大きなあやまちを犯しているのではないかと思わざるを得ないと、ぼくのようなマイノリティ(少数派)は確信する。

ぼくのまわりには、無名だが、優れた詩を書く人が多い。だが、そのひとたちは、自分たちのことを詩人だと呼ばない。実力も闘志もありながら、実に控えめである。

一方、抜けぬけと詩人と称するひとにも言いたい。

詩人が書くのは、詩人のための詩ではない。できるだけ平易な言葉で、日頃、文学とは遠い位置にいるひとたちの胸に届いてこその詩なのである。

いくら装丁の立派な詩集でも、辞書で調べなければ理解できないような、クソのような文字の羅列よりも、小学生の少女が書いた拙い詩の中にこそ光る言葉があり、ひとの運命を変える言葉があるのを、思い知るべきである。

「詩集は売れない」

この言葉が、大嫌いである。