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フォークグループのかぐや姫が解散した1975年、ぼくは中学生だった。

TVから布施明が歌うシクラメンのかほりが流れてきたとき、感動で胸が止まりそうになった。全身に鳥肌が立った。

シクラメン」って何だろう?「かおり」でも「かをり」でもなく「かほり」というの何だかとっても新鮮だった。

サビの部分で、布施明がギターをかき鳴らし、髪を振り乱して歌うのもかっこよかった。何よりも、歌詞が、メロディーが、あらたなニューミュージックの時代の到来を予感させるものだった。

余談になるが、作詞家の阿久悠が著書で「この歌の詞は、本来は自分が書くべきものだった」と先を越されたことを、酷く悔いていた。

で、間もなく、小椋佳が日本のミュージックシーンを席巻することになる。

しおさいの詩」をはじめ、「揺れるまなざし」俺たちの旅「モク拾いは海へ」は好きだが、まだ、世に出ていなかった頃の作品はより純文学的である。

さて、この春頃だったかTVの「徹子の部屋」に小椋佳がでていて、自分は今以て音符が書けないと告白していた。まず、詩を書いて鼻歌でメロディーをつけ、自分で歌っているところを、カセットテープ(当時)に録音し音符をおこしてくれる「採譜屋」に渡すのだという。そうすると、鼻歌が音符になって戻ってくるということで、驚いた。鼻歌でも作曲になるんだと。それも、りっぱな。(今では、そういうアプリもあるみたいだが)。

サザンの桑田佳祐も音符が読めくて原坊が、音符にしていたとか、井上陽水も音符は苦手だと、若い頃、耳にしたことがある。

徹子の部屋」でも種をばらしているのだが、布施明に提供した「シクラメンのかほり」と自分が歌う「シクラメンのかほり」は、ちょっと違う。

歌うアーティストが違うから、多少、歌い方などで、違ったように感じる・・・ということでもない。聴き比べて、明らかに違うことが分かる。

小椋佳からすれば、故意に区別化したのではなく、「シクラメンのかほり」は数パターンできていて、どれを布施明に提供したのかわからなくなって、偶然そうなってしまったと告白している。

音譜が読めなくても(書けなくても)、偉大な楽曲は生まれることは、素敵なことだ。

まあ、才能があるからできることだろうけれど。