ぼくが、はじめて読んだ長編推理小説は松本清張の「ゼロの焦点」でも「点と線」でもない。
森村誠一の「人間の証明」である。ちょうど、角川ブームの真っ只中で、書籍はもとより、映画、コマーシャルからアイドルに至るまで、角川ブランドの時代であった。
森村誠一はホテル勤務をしながら、小説を書き、自費出版の日々を送っていたが、角川書店の雑誌「野生時代」で認められ、角川春樹のバックアップを受けることになる。
「人間の証明」は推理小説でありながら、本格的な人間ドラマである。
この小説の核となるべきモチーフは、すべて、この一篇の詩からはじまっている。
ぼくも、詩を書くが、時には大家の作品に触れて、精神を涼やかにしたいものである。
「帽子」
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りがきましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして、拾はうとして、ずいぶんと骨折ってくれましたっけね。
だけど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背丈くらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとうにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃたでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で、毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、 今夜あたりは、
あの谷間に、しずかに雪がつもってるでせう、
昔、つやつや光った、伊太利麦の帽子と、
その裏にぼくが書いた
Y,Sという頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。
(原文のまま)