ぼくの映画狂のDNAは長男と長女に、受け継がれたらしい。
ふたりとも映画館へは、よく足を運んでいるし、マイナーな作品は名画館を巡って鑑賞している。過去の作品は、もっぱらDVDに頼ってる。パソコンで内容を調べて、レビューなどを参考にして、10枚単位でレンタルしてくる。
ゆうべも、長女はDVDをレンタルしてきた。作品名を見てみると日本未公開作品もあり、最近は、ぼくの映画の知識だけでは追いつけなくなっている。その中に「十二人の怒れる男」があった。あっ、こんなのも、ちゃんと観るんだなあと感心してしまった。
「十二人の怒れる男」は1957年製作のシドニー・ルメットの初監督作品。内容の99パーセントは、陪審室という密室の中のできごとだ。
NYの法廷で殺人事件の審理が終わった。被告はスラム街出身の17歳の少年で、日頃から不良といわれ、飛び出しナイフで父親を殺した容疑。 12人の陪審員が評決のため陪審室に引き上げてくる。夏の特別暑い日で彼らは疲れ切っており、早く評決を済ませ、家に帰りたがっていた。
第1回目の評決は11対1で有罪が圧倒的。しかし、評決は全員一致でなければならない。無罪といったのは、ヘンリーフォンダ扮する第8番陪審員ただひとりだけである。彼は不幸な少年の身の上に同情し、犯人かもしれないが、有罪である証拠もない、だから、充分に話し合うことが、必要だと力説する。有罪の評決を下した場合、17歳の被告人は電気椅子送りになる。ひとりの、人間の命がかかっていると繰り返す。
皆はしらけたが、証人の嘘、思い込みなどを暴き、殺害方法にも疑問を呈し、他の陪審員の評決を有罪から無罪へと変えていく。
最終的には無罪11、有罪1と立場は逆転する。
頑として有罪を主張する第3番陪審員は、16歳の息子に家出された経験があり
「今どきの若い奴はなっとらん!」と具体性のない有罪の主張を繰り返すがポケットから無意識に取り出した息子の写真に目が触れ、その場でおおきく泣き崩れ、「無罪だ」「無罪だ」と評決を下すあたりは、胸に迫るものがある。
陪審員制度は、問題が多い。
人種の構成によって、評決が変わってくる。
人種の坩堝、アメリカの闇の部分だ。
陪審員は有罪か無罪か、罪の部分を決めるが、罰の部分は裁判官が決める。
日本の裁判員制度は、多数決によって罪も罰も決する。もちろん、裁判官のアドバイスもある。
アメリカの陪審員制度よりは、近代的かつ常識的だと思う。
しかし、国民感情により近いものをといいながら、控訴審判決で裁判員の決めた判決を覆すのはいかがなものか。
所詮、あなたたちは素人でしょと言われているのと同じことだ。
裁判員制度に対するおおきな不満のひとつだ。
裁判員制度で下された判決を尊重すべきという法務省の通達も出ているにもかかわらずだ。
久々に法廷ドラマの傑作「十二人の怒れる男」を観て、感じたことを書いてみた。