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写真の人物・杉原千畝(すぎはら・ちうね)は、1939年、ソ連の動向とヨーロッパ情勢を探るために、リトアニア・カナウス領事館の領事代理に就任した。同年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。

1940年、ナチスドイツの迫害から逃れるために、多くのユダヤ難民がビザの発給を求めて領事館に押し寄せる。

日本を経由して、第3国に逃れるための、通過ビザが彼らには、どうしても必要だった。杉原は事情を察知して、本国に、何度もビザ発給の許可を申請するが、日独伊3国軍事同盟締結まえの微妙な時期であったし、ドイツを刺激したくないという理由で「許可をしない」という返事が返ってくるだけだった。

最初は領事館の門前に数名のユダヤ人の姿があっただけだが、日を追うごとに数十人、数百人とビザの発給を求めるユダヤ人の数が増え続け、杉原は独断でビザを発給することを決意する。本国の意向に背くこと、職を失うこと、家族が崩壊すること、杉原自身に命の危険が及ぶこと・・・・すべて、覚悟の上、決断する。

杉原は寝る間も惜しんで、ビザを発給するが、それで、必ずしもユダヤ人の命が救われたわけではない。ナチスドイツやソ連によって、旅の途中で命を絶たれるものも続出している。運よく難を逃れたユダヤ難民であっても、ソ連からシベリア鉄道でウラジオストックまで行き、船で日本に渡り、そこから第3国へと逃れるという気の遠くなる苦難に満ちた旅が待っていた・・・・。

戦後、杉原千畝は外務省を退職させられた。

職を転々とし、最後はちいさな貿易会社のモスクワ支店長という肩書きで終えている。

イスラエル政府から「センポ・スギハラ」という人物照会が、日本の外務省に28年間にわたり、問い合わせがあった。しかし、日本政府は「該当者なし」という返答をしている。杉原千畝の「ちうね」という発音が外国人には困難で「センポ」と杉原自身が名乗っていたのも理由のひとつだ。

1969年、杉原は、かつて自分が発給したビザで日本経由で第3国を目指したユダヤ難民がどうなったのかを案じて、イスラエル大使館に問い合わせて、ようやく「センポ・スギハラ」が「杉原千畝」だと判明し、イスラエル政府に招かれている。

1985年、イスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」に選ばれる。

杉原は病気療養中で家族がイスラエルに訪問している。

1986年、杉原千畝他界。

1991年、日本国首相が謝罪し、名誉回復する。

杉原千畝は6000人の命を救った。

命のビザといわれる所以である。

このユダヤ人救出劇は、決して杉原ひとりの力で成し得たものではない。

オランダ大使、ウラジオストック領事館の同級生、JTB、ユダヤ難民を受け入れた福井県敦賀の人々などの協力なしには成し得なかった。

しかし、杉原千畝の外交官というより、ひとりの人間としての決断が不可能を可能にしたといえる。

杉原は当時を振り返って、コメントしている。

「あの時、数人のユダヤ人がナチスドイツからの迫害から逃れるために、日本の通過ビザが必要と言ってきました。本国は「だめだ」と言う。しかし、ユダヤ人には命の危機が迫っている。それで、わたしはビザを発給しました。でも、わたしでなくとも、人間であれば、だれもがそうしたと思います」と。