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世界を動かした一枚の写真である。
シリア難民のボートが転覆し、溺死した坊やが浜辺に流れ着いた一枚である。
この写真が世界中に配信されたことで、これまで、難民の受け入れに消極的だったイギリスをはじめ欧州の国々が、次々と難民の受け入れを表明している。
シリア情勢の深刻さと真摯に向き合わなければと考え、坊やには申し訳ないが、当ブログでは、敢えて加工していない写真を掲載することをご了解いただきたい。
2011年3月、アサド大統領の政府軍と反体制派の武力衝突が進行形で現在まで続いている。この年月、我が国では東日本大震災があったから、ぼくも含めて、ほとんどの日本国民は、ある意味それどころではなかった。
シリアの内戦は、ジハード主義(今でいうISIL)とシリア北部のクルド人勢力の武力衝突、そして、内戦とはいいながら、アメリカをはじめとする多国籍軍とロシアを巻き込んでの空爆が、シリア情勢を、より複雑化させている。
もはや、内戦ではなく、戦争である。
アサド大統領のアラウィー派(シーア派の分派)と反体制派のスンニ派の宗教対立が、悲劇を生んでいる。
シリアの人口2200万人のうち、22万人以上が死亡し、400万人以上が国外で避難生活を送っている。
こうして、ぼくが、パソコンに向き合ってる「今」もシリアの人々は、命がけで、欧州諸国を目指している。
欧州では数千、数万単位の難民を受け入れている。
特に、ドイツのメルケル首相は、過去のナチス・ドイツがユダヤ人を迫害した贖罪の意を込めて、積極的に難民を受け入れている。
我が国においては2014年までの難民申告した63人のうち難民認定されたのは3人のみである。(2015年、10,14付け朝日新聞夕刊から、一部参考と一部引用)
シリア国内の戦争行為は収まる気配がない。どころか、大国のコミットもあって、混迷を極めるばかりだ。
欧州を中心に、シリア難民は、今後も増え続けるだろう。
命は救いたい。
しかし「将来的に欧州諸国がイスラム国家になる可能性がある」とジャーナリストの池上彰氏がTVで懸念を表明していたが、それも、また、事実なのかもしれないと腕を組んでしまった。
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写真の人物・杉原千畝(すぎはら・ちうね)は、1939年、ソ連の動向とヨーロッパ情勢を探るために、リトアニア・カナウス領事館の領事代理に就任した。同年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。
1940年、ナチスドイツの迫害から逃れるために、多くのユダヤ難民がビザの発給を求めて領事館に押し寄せる。
日本を経由して、第3国に逃れるための、通過ビザが彼らには、どうしても必要だった。杉原は事情を察知して、本国に、何度もビザ発給の許可を申請するが、日独伊3国軍事同盟締結まえの微妙な時期であったし、ドイツを刺激したくないという理由で「許可をしない」という返事が返ってくるだけだった。
最初は領事館の門前に数名のユダヤ人の姿があっただけだが、日を追うごとに数十人、数百人とビザの発給を求めるユダヤ人の数が増え続け、杉原は独断でビザを発給することを決意する。本国の意向に背くこと、職を失うこと、家族が崩壊すること、杉原自身に命の危険が及ぶこと・・・・すべて、覚悟の上、決断する。
杉原は寝る間も惜しんで、ビザを発給するが、それで、必ずしもユダヤ人の命が救われたわけではない。ナチスドイツやソ連によって、旅の途中で命を絶たれるものも続出している。運よく難を逃れたユダヤ難民であっても、ソ連からシベリア鉄道でウラジオストックまで行き、船で日本に渡り、そこから第3国へと逃れるという気の遠くなる苦難に満ちた旅が待っていた・・・・。
戦後、杉原千畝は外務省を退職させられた。
職を転々とし、最後はちいさな貿易会社のモスクワ支店長という肩書きで終えている。
イスラエル政府から「センポ・スギハラ」という人物照会が、日本の外務省に28年間にわたり、問い合わせがあった。しかし、日本政府は「該当者なし」という返答をしている。杉原千畝の「ちうね」という発音が外国人には困難で「センポ」と杉原自身が名乗っていたのも理由のひとつだ。
1969年、杉原は、かつて自分が発給したビザで日本経由で第3国を目指したユダヤ難民がどうなったのかを案じて、イスラエル大使館に問い合わせて、ようやく「センポ・スギハラ」が「杉原千畝」だと判明し、イスラエル政府に招かれている。
1985年、イスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」に選ばれる。
杉原は病気療養中で家族がイスラエルに訪問している。
1986年、杉原千畝他界。
1991年、日本国首相が謝罪し、名誉回復する。
杉原千畝は6000人の命を救った。
命のビザといわれる所以である。
このユダヤ人救出劇は、決して杉原ひとりの力で成し得たものではない。
オランダ大使、ウラジオストック領事館の同級生、JTB、ユダヤ難民を受け入れた福井県敦賀の人々などの協力なしには成し得なかった。
しかし、杉原千畝の外交官というより、ひとりの人間としての決断が不可能を可能にしたといえる。
杉原は当時を振り返って、コメントしている。
「あの時、数人のユダヤ人がナチスドイツからの迫害から逃れるために、日本の通過ビザが必要と言ってきました。本国は「だめだ」と言う。しかし、ユダヤ人には命の危機が迫っている。それで、わたしはビザを発給しました。でも、わたしでなくとも、人間であれば、だれもがそうしたと思います」と。
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今秋「杉原千畝スギハラチウネ」と同時期に「海難1890」を試写会で観た。
どちらも秀作なのだが、きょうは「海難1890」の記事を書く。
日本・トルコの合作映画で、両政府が関与しているので、両国の国益への配慮が垣間見られて、非常に政治的に製作されたことは容易に推測できるが、映画そのものは、実話であろうがなかろうが、優れている。その点は、おおいに評価したい。
ぼくも、不覚にも涙が出て止まらなくなった。
1890年、エルトゥールル号が和歌山県串本町沖合いで座礁し、500人以上の死者をだしたが、まずしい村人たちの、懸命の救出活動で、50数名の命は救われた。
村人たちの食料が底をついても、生き残った乗組員たちに食料を提供した。
無償の善が描かれている。
1985年、イランイラク戦争で戦火のテヘランに取り残されたおおくの日本人がいる。当時、半官半民の日本航空の労組の反対で、現地には飛行機を飛ばせない、自衛隊も憲法9条の弊害があり、日本政府はテヘランに取り残された邦人を見殺す決断に至った。トルコにも、まだ脱出できていない自国民がテヘランにいる。数時間後にはサダム・フセインの無差別攻撃が開始される。当時のトルコのオザル首相は、苦渋の末、日本人を脱出させるために、航空機を出す決断を下す。自国民には、陸路で脱出するよう指示をする・・・・・。オザル首相の下には「最善の選択だった」とトルコ国民からの無数の声が届けられる。
まあ、うがった見方も出来ないわけではないが、ここはひとつピュアなこころで鑑賞したいところ。
この冬、超おすすめの映画です。
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10月24日よりオンエアーされている、大塚製薬「カロリーメイト」の新CMは、そのクオリティの高さで、海外メディアでも大きく取り上げられている。
『見せてやれ、底力。』編で、受験を控えた、ひとりの女子高校生の四季が描かれている。試験会場で,この一年をフラッシュバックさせるのだが、驚くべきは「黒板アート」である。
製作したのは34人の武蔵野美大生たち。
黒板に6328枚の絵を描き、費やした時間は、なんと、2623時間。
彼女たちに、大拍手である。
この作業にも参加した黒板アーティストの、れなれなさんの作品(当時、高校生)は、ベストセラー作家・宮部みゆきの最新単行本の表紙に採用されている。
通常、CMはTV枠で放映できるのは、15秒か30秒であるが、ノーカット版をご覧いただきたい。
過去にも、砂のアートやお笑い芸人・鉄拳のドラマティックすぎるパラパラまんがなどが話題になった。しかし、中には一時の話題をさらうだけで、消えてしまうケースも少なくない。
「黒板アート」は、どっちだ?
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高市早苗総務大臣が、マイナンバー通知カードの送付が、当初予定していた11月中に完了できない見通しを示した。
日本郵便も、現在、配達完了済みなのは1割程度であることを認めている。
残り、5000万(世帯)通。
まず、国や自治体の準備、印刷、日本郵便への納品自体が遅れていること。
日本郵便にも通常の配達業務があり、別途、非番や休暇を買い上げ、ひとりやふたりのマイナンバーの専従員を出したところで、焼け石に水であること。
書留配達で8時間プラス超勤4時間の12時間走り続けても、配達できるのは、ひとり250通程度が精一杯だ。不在通知をその都度、投函していれば、その数は200程度に落ちるだろう。
このまま、何の策も講じなければ年内の完全配達も、難しくなる懸念がある。
年賀繁忙期も入ってくるし、12月は一般の配達物も多くなる。
国としても、1月からのマイナンバー制度の見直しを迫られることとなるだろう。
さあ、どうなるか? これ以上、配達員を締め付けると、やってはならない「誤配」だって、多くなる可能性がある。
さあ、どうする?
ここからは、至極、個人的な愚痴
そもそも、マイナンバー制度なんて代物、どうして、通したんだ?
民主党政権末期に、さっさと通ってしまったじゃない。
何の役にも立たない住基ネットのとき、あんなにも反対したのに!
この間の安保法制のとき、あんなにも、熱く反対してたひとたち、あんたたち、マイナンバーのとき、なにやってたの?
今頃になって、プライバシーがどうのこうのと騒いでも、もう、遅いんだ!
ぼくらは、もう、しっかり、見張られているんだ!