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暑すぎた、いや、熱すぎた夏が、ようやく過ぎて、すっかり秋めいてきた。とはいえ、今月中は、まだ、夏日があるという。

ぼくも、所用がなんとか片付く目処が付き、ブログの記事を書けることを、しあわせに思う。同時に、2ヶ月以上も空けてしまったことを申し訳なく思う。

その間、産経新聞朝刊朝の詩のファンや投稿者に激震が走る「事件」が起こった。

9月21日の産経新聞朝刊一面に10月1日からの朝の詩の選者交代の記事が載った。

新川和江が選者を降りる!?         ショック!!!!!!!!!

むろん、ご高齢ではあるし、いつか、こういう日が来ることは予測はできたし、覚悟もしていた。最悪の場合、朝の詩そのものがなくなることも、憶測としては、ある現実味を帯びていたことも、たしかだ。

過去にも書いたかもしれないが、ぼくは、やなせ・たかしからは「抒情性」を、菊池貞三からは「不条理性」を、そして、新川和江からは「エレガントな彩り」を学んだ。

朝の詩では、新川和江に「恋文をしたためるように」作品を送った。

10文字×14行(投稿開始当初は文字は小さかったが、もう少し長めの文章が書けた)に自分の世界を描く、想いを届ける、それに新聞なので、制約も限りなくある。

長文を得意としていたぼくだったが、文章をそぎ落とし、表現を変え、いいものを作り上げていく・・・・・この作業はほんとうに勉強になった。

実際大きな文学賞の多くは、朝の詩投稿以降に獲得している。

36年の長きにわたり、選をしていただいた新川和江氏に感謝の意を表したい。

さて、新選者の八木幹夫氏、責任大きいよ!

10月に入って、つぶさに、どのような作品が選ばれているのかを、分析してみた。

あくまで、ぼくの個人的見解である。

①朝を意識しすぎかな。

②地味な作品が多い。

③土の匂いがするようなナチュラルな作品が多い。

④あきらかに上手くない作品は載せていない。無難な作品を、という印象。

⑤ドラマよりも、心象的風景を好むようだ。

まあ、八木幹夫氏も、今は、手探りの状態だろう。

参戦するかどうかは、もう少し様子をみよう。媚びるのではなく、選ばれる作品を書くならば、戦略はたしかに必要である。

 

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お盆も終わり、日常が戻ってきた。

姉たちの帰省、義母の初盆、それに初孫の誕生祝いに駆けつけてくれた多くの

友人、親戚へのおもてなしもあって、けっこう、多忙だった。

その中で、詩の文学賞に応募する原稿用紙2枚程度のシリアスな作品を2篇書いた。

まだ、手直しは必要だが。

さて、以前にも書いたかもしれないが、日々の郵便物が多い。ほとんどが、ぼく宛で

ありがたいことに詩集や歌集の恵贈だ。

見知らぬ人が9割を占める。全部読んで、感想などをお返事したいのだが、物理的に

困難な状態にある。興味を惹く作品は、今すぐ読めなくても、とりあえず、本棚に並べておくが、それも数が限られている。正直に告白すると、それ以外の献本は目さえ通せずに押し入れの奥や「ごめんなさい」と心で謝って廃棄せざるを得ないのが実情である。

今回、ご紹介する歌集「ザビエル忌」の著者八木博信氏は第45回短歌研究新人賞の受賞者であり、詩の方では、日本海文学大賞の詩部門の大賞を、ぼくと競い合った文学の仲間であり同志である。

ぼくは、ずーっと詩を書いていらっしゃるものだと思っていたが、送られてきたのが

歌集ということで、驚きながらも、興味を惹いた。

短歌と呼ばせていただいても、良いものと勝手に理解するが、敢えて、平易な言の葉で

紡がれていて作品の1首1首が読者に寄り添っていて、八木博信という人間力に触れることができる。

いくつかの章に作品が分類されているが、それぞれに現代的で、等身大で、ロマンがあって、耽美的でさえある。詩的な余韻の残る作品が多い。

ぼくは、これまで歌集といえば寺山修司の「田園に死す」しかお薦めしなかったが、

推薦本が1冊増えたようだ。

ぼくが、いちばん気に入った作品を1首ご紹介させていただく。

「わが受賞 旅情のごとしあと七日戸川京子が自殺するまで」(明日への祈り

珠玉の1首だと思う。

ご興味のある方はこちらからどうぞ。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB%E5%BF%8C-%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%8D%9A%E4%BF%A1/dp/4907891644/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1534376944&sr=8-1&keywords=%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%8D%9A%E4%BF%A1

 

 

 

 

無論、映画における学生運動と、映画公開当時の日本の学生運動は別物だが、ユーミンは、さすが天才で、うまくリンクさせた名曲を作り上げた。

2009年の夏、ユーミンのコンサートに行ったとき、MCでユーミンの口から

「いちご白書をもう一度」という言葉が、確かに聞こえて、ユーミンがこの曲を歌ってくれるのではないかと胸をワクワクさせ、会場も、同じ想いでざわついていた。

それを遮るようにユーミンは「そうじゃないんです」と前置きして「その『いちご白書をもう一度』のアンサーソングを作ったので、聴いてください」といった。

しかし、ぼくは、あくまで個人的にだが、そのアンサーソングがどんな内容の歌だったか、どんなメロディーだったか、まるで憶えていない。曲名すら忘れている。

ぼくはアコースティックギターなら、すこしだけ弾ける。しかし、かなりの偏りがあって、ひたすら、南こうせつ、伊勢正三、松山千春を練習してきた。

この間、テレビを観ていて、昔の映像だが、ばんばひろふみが「いちご白書をもう一度」をかみしめるように歌っていた。ギターを鳴らしていた。

それに感化されて、「いちご白書をもう一度」を練習するようになった。いや、練習するほど、むずかしいコードは使われていない。ただ、情感を込めて歌うことが、重要だなと思った。ひとりさみしく、しかし、ある熱く激しい情感を以て、弾き語ることが、学生運動とは無縁だったぼくの近頃の習慣となっている。

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フォークグループのかぐや姫が解散した1975年、ぼくは中学生だった。

TVから布施明が歌うシクラメンのかほりが流れてきたとき、感動で胸が止まりそうになった。全身に鳥肌が立った。

シクラメン」って何だろう?「かおり」でも「かをり」でもなく「かほり」というの何だかとっても新鮮だった。

サビの部分で、布施明がギターをかき鳴らし、髪を振り乱して歌うのもかっこよかった。何よりも、歌詞が、メロディーが、あらたなニューミュージックの時代の到来を予感させるものだった。

余談になるが、作詞家の阿久悠が著書で「この歌の詞は、本来は自分が書くべきものだった」と先を越されたことを、酷く悔いていた。

で、間もなく、小椋佳が日本のミュージックシーンを席巻することになる。

しおさいの詩」をはじめ、「揺れるまなざし」俺たちの旅「モク拾いは海へ」は好きだが、まだ、世に出ていなかった頃の作品はより純文学的である。

さて、この春頃だったかTVの「徹子の部屋」に小椋佳がでていて、自分は今以て音符が書けないと告白していた。まず、詩を書いて鼻歌でメロディーをつけ、自分で歌っているところを、カセットテープ(当時)に録音し音符をおこしてくれる「採譜屋」に渡すのだという。そうすると、鼻歌が音符になって戻ってくるということで、驚いた。鼻歌でも作曲になるんだと。それも、りっぱな。(今では、そういうアプリもあるみたいだが)。

サザンの桑田佳祐も音符が読めくて原坊が、音符にしていたとか、井上陽水も音符は苦手だと、若い頃、耳にしたことがある。

徹子の部屋」でも種をばらしているのだが、布施明に提供した「シクラメンのかほり」と自分が歌う「シクラメンのかほり」は、ちょっと違う。

歌うアーティストが違うから、多少、歌い方などで、違ったように感じる・・・ということでもない。聴き比べて、明らかに違うことが分かる。

小椋佳からすれば、故意に区別化したのではなく、「シクラメンのかほり」は数パターンできていて、どれを布施明に提供したのかわからなくなって、偶然そうなってしまったと告白している。

音譜が読めなくても(書けなくても)、偉大な楽曲は生まれることは、素敵なことだ。

まあ、才能があるからできることだろうけれど。

 

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             寝顔

  眠れない夜は
  傍らの きみの寝顔を
  見ていよう

  スヤスヤと
  ちいさな寝息を
  たてている
  きみの寝顔を

  カーテンの
  隙間から
  朝の光が降り注ぐまで
  ぼくは 飽くことなく
  寝顔を見ていよう

 

 

精神状態も最悪にあった、おとといの朝。産経新聞に載せてもらった詩。

その日も、早朝の5時過ぎからテレビをつけていて、在阪テレビ局の「す・またん」という

番組を観ていた。番組の冒頭に朝刊全紙の一面ニュースを解説してくれるので、産経新聞

カメラが寄ったとき、朝の詩をチェックするのだが、たまたまその日、ぼくの作品だった。

産経さんに関しては、ひと月に2篇書くのだが、載せてもらえるなら、もうひとつの「雨を聴く」

という作品だろうと、勝手に思い込んでいた。そちらのほうがドラマ性があるし、作品としての

完成度も高いと思ってたからだ。それに、季節的なものも加えると「雨を聴く」かなっと。

でも、実際は「寝顔」が採用された。新川和江の思惑もあったのだろう。先生には感謝している。

読んでくださった感想等を見てみると「傍らのきみ」を「こども」と解釈して読んでいてくれて

「ほっこり感」を味わってくださったようだ。

思ったよりも、評価が高かった。

そのようなこともあり、頓服を飲んでも改善しなかった精神状態の悪化は、お昼前には、収まってくれていた。

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ふとした瞬間、どうしても「あの歌」が聴きたいと思うことがある。

突発的にである。
まず、アマゾンや楽天などでCDを探してみるが、見つからない。
古いLPなので、編集されて、タイトルも変えられてBEST版的
なCDに生まれ変わってる可能性もある。調べていくと「オールタイムベスト」

というCDが出ていて「こんなに遠くまで来てしまった」
に収録されていたローリング・ストーンズは来なかった』は収録さ
れているけれど『一瞬の夏』は、他のどのCDにも存在しない。
聴けないとわかれば、なお聴きたくなってくる。
西島三重子・・・・・といえば、「ああ、『池上線』の」と、
たいていの場合、
そのような返事が返ってくる。たしかに、彼女の代表曲のひとつ
でもあるし彼女を世に送り出した楽曲でもあるだろう。

J-POP界も、まだまだ混沌としていた時代で、演歌歌手と間違われたこともある。

世間的には、それほど彼女の曲は、ぼくが思うよりも認知度が低かったかもしれない。

西島三重子「池上線」という固定観念は、簡単には融解しない時代だった。
しかし、アルバムの中にこそ、真の名曲があることを、
ファンは知っている。
今、どうしても西島三重子の世界に浸りたい。幸いにもLPは持っていたので、
意を決して押し入れの奥から引っ張り出した。3時間かかった。
レコードプレーヤーにアンプを繋げた。超アナログの世界。
「こんなに遠くまで来てしまった」は西島三重子がワーナー
イオニアからテイチクというレコード会社に移籍して第一弾の
「青春の痛み」が詰まった珠玉のアルバム。なかでも前述した
ローリング・ストーンズは来なかった」「一瞬の夏」
は若さと生きることの本質に迫った作品で、胸に突き刺さるものがある。

LPレコードのキズはひどかったけれど
ぼくの生き方に影響を与えてくれた、1984年制作の忘れられない一枚である。

因みに、当時のぼくの胸を突き抜けた各曲のフレーズをご紹介しておく。

『絶対にあいつら来るわけないさ すねたようにジンを飲んでたっけ

ちぎった前売り券 川に捨てたわね

Rolling Stonesは来なかった』

                                                      「ローリング・ストーンズは来なかった」

『恋人よ眩しくきらめいて 一瞬にすぎてゆく夏

死ぬつもりで目を閉じれば もう生きることが始まっている』「一瞬の夏」

                                    (両作共に作詞・門谷憲二 / 作曲・西島三重子)

ブルマァク ブリキ 電動リモコン歩行 ゴジラ 当時物_1
          ブリキの怪獣
            

  今でもブリキの怪獣は
  電池さえ入れ替えれば
  ちゃんと動くのだ
  こどもの時 百貨店で
  ごねまくって
  泣き叫んで安月給の
  父に買ってもらった
  銭湯が十五円の時代
  二千円の買い物は
  痛手だっただろう
  ブリキの怪獣は
  亡き父への郷愁を
  代弁するように切ない
  雄叫びをあげている

今朝の産経新聞「朝の詩」(新川和江・選)に掲載された。

また、レトロな詩を書いちゃった!

今の若い子が、どのような言葉を使うのか、好むのとかは、結構、研究しているつもり。

ただ、寄り添うことはあっても、媚びることはない。

分からないなら、分からないでいいし、知らないなら、知らないでいい。

かといって、じじばば狙いで書くということもない。

ただ、自分が書きたいと思ったものを書いている。

無論、新聞なので、使えない言葉も、書けない事案もいっぱいある。

父とは、この世で、たった26年間の付き合いだったことに、今更ながら、驚きを禁じ得ない。

父には、零戦パイロットや幽霊となって、酒飲みの赤ら顔の親父、あるいはサイパンで戦った兵士として、ぼくの作品によく登場してもらった。もちろん、ぼくが、そういう父親のキャラを作り上げるのだが、よく当たった。

しかし、この「ブリキの怪獣」の父親は実像に近い。

競馬場帰りに、阪神百貨店に寄る。馬券が当たれば、大食堂でご馳走してくれたし、ちょっとしたおもちゃは買ってくれた。

あるとき、おもちゃ売り場にブルマァクというメーカーからブリキ製のリモコンでのしのしと歩く怪獣が販売された。バラゴンもあったのだけれど、ゴジラがほしくてたまらなかった。

下世話な話だけど、状態が良ければ、マニアや業者の間では50万円以上で取引されている。

さて、先ほど「父親のキャラを作り上げた」と、さも自分の創造力の手柄のように書いたけれど、それは、違う。父親自体が、常にそのようなものを、醸し出してくれていたからだ。なんの取り柄もなさそうな息子にと父親が、ぼくに、与えてくれていたのだ。