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暑い!いや、熱い!二輪で配達していると、容赦なく灼熱の夏のひかりが、じりじりと肌を焦がしていく。真っ黒になった。

しかし、この季節こそ、有力な詩の文学賞の応募の季節である。8月中、9月半ば、10月末〆という感じで創作意欲を駆り立てる。

ぼくは、これまでにも、いくつもの大きな賞から小さな賞のてっぺんを獲ってきた。

いちいち記録はしていない。

表彰状や盾、トロフィーもいくつもいただいたが、部屋には一切、飾らない。すべて、押入れの奥に雑然と仕舞い込んである。

そんなものに興味がないからだ。

ぼくが興味があるのは、てっぺんを獲ったか獲れなかったかの事実、それと、授賞式の雰囲気は大切にしているし、妻と鉄道で行く授賞式への旅。

しかし、ここ6,7年は本格的な賞には応募していない。気が向いて応募しても3位程度ならよろこびもない。やっぱり、母が他界してから、ぼくのなかで、ポキンとなにかが折れたように思う。ひとつの翼のエンジンが完全に壊された感触があって、いつも、片肺飛行しているような感じだった。

書き続けてはいたが・・・・・・。

最近になって、驚くほど「詩」には関心を示さない妻が「今度は、九州へいこう!」とぼくの背中を推す。

たしかに、諫早市主催の歴史のある文学賞がある。

「そうやな・・・・どうしようかなあ」と返事をはぐらかしていたが、学生時代の「ある事件」を思い出して、これを題材に書けば、いけるかもしれないと、胸にこみ上げてくるものがあった。いくつかの言の葉たちが、降ってきた。

20分くらいで、原稿用紙2枚分の作品の構想はまとまった。

あとは、パソコンに向って打ち込んでいくだけ。

そこまでが、こわい。勇気が要る。足元がすくむ。

ぼくが、これまでに応募している詩の文学賞は、すべてが作品に与えられる賞である。

三好達治賞とかH氏賞とか、詩集に与えられるものとは違う。

でも、ぼくは、これは、ちょっと違うんじゃないの?と思っている。

大体からして、一般読者の胸に響かない。受賞する出版社も、ああ、また〇〇社かという感じ。そして、一番疑問に思うのは、選考員は詩集という作品集の、いったい何を決め手に判断するのだろう。バランスか。テーマ。時代性?

わけのわからない日本語の文章が、H氏賞

ふざけんなって!

はっきりいって、基準が曖昧すぎる。

(まあ、かりそめにも、ぼくなんかの抒情詩集が詩集賞を受賞するような時代が来れば、日本の詩壇界もおおきく読者に近づいたってことになるわなあ)

それに比べて、ひとつの作品で選んでくれるほうが、よほど、フェアーですっきりする。

さて、今夜あたりから応募作に取り組んでいきましょうかね。肚を決めて。

ふう~。

 

 


【青山繁晴】参議院選挙 街頭演説 大阪・難波 高島屋前 2016.7.9

 

先日の参院選に、不覚にもジャーナリストで独立総合研究所代表の青山繁晴(あおやま・しげはる)が立候補しているとは、思いも寄らなかった。

投票日前日に、自宅ポストに投函された選挙公報比例代表区の名簿を見て、はじめて知った次第である。ぼくなんかは、まだ、ましな方で、投票日の夜、選挙特番で「青山繁晴当確」のテロップで、知ったというひとも少なくない。

6月6日に安倍総理から直接、要請があったという。選挙のたびに打診があるが、今回、安倍総理は「あなたが議員になれば、他の議員の意識も変わる。自民党を壊してくれ」といったそうだ。

その言葉で出馬を決めたそうである。ただし、1期6年しかやらないこと、どこの団体からも、個人からも一銭の政治献金は受けないことを条件に。

1期しかやらないのは、政治家は職業であってはならない。命も金も名誉もいらないという覚悟で、ボランティアでやるべき。何期もやると悪しき世襲制を認めてしまうとのポリシーから。

自民党公認であるにもかかわらず、いかなる団体の支援、応援を拒否し、東京ではなく、大阪・北区のちいさなビルの一室に選挙事務所を構えた。ポスターもなく、必勝の文字もなく、だるまもなく、日の丸の旗が建てられているだけの事務所。

選挙活動も、街頭演説が中心で、それでも、何の動員もかけず、どこからの命令でもなく、自らの判断で駆けつけた有権者で、青山のいくところは、どこも超満員だった。

結果的に全国2位の48万5千あまりの票を獲得

しかし、自然発生的にはじまった当選会見は、まるで、落選会見のように静かだった。笑顔もなく、花束もなく、万歳もなく、祝電も拒絶した。

北朝鮮よる拉致被害者を我々以外、いったい誰が助けられるというのか。自国民が拉致されて、どうして自衛隊が救出できないのか。さっそく、超党派で内閣に要望書を提出して、国を動かせていくということを、潰れた声で、切々と訴えた。

青山には、そんなときに、なにが、花束だ、なにが、万歳だという強い想いがある。

他の人間なら、信用できないし、理想論だと思うし、パフォーマンスだとも思う。

しかし、青山繁晴なら、やってくれる。

男・青山になら、この国を任せられる。

と、ぼくは、信じていたい。

 

当ブログでは、以前にも青山繁晴を記事化している。

http://tigerace1943.hatenadiary.jp/entry/2014/09/14/181642

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実は、うつ病で、気分障害が酷くなり、主治医の診断の下、ここ2週間ばかり、会社を休んでいた。

この春、わが社も例に漏れず、人事異動があった。去っていったのは、みんな、ぼくという人間をよく理解してくれていた上司たちだ。そういうひとたちが、いなくなってしまった。

そして、問題の男が、ぼくのあたらしい直属の上司となった。

異動組で、横滑りの課長なのか、昇格して課長になったのかわからない。

仕事上のあらゆる場面で、ぼくとの考えにかなりの温度差があることがわかった。

ある日、ある社員から、ぼくの人格を否定するような発言(間接的に聞いた)があったようなので、やむ得ずその上司に相談した。

しかし、相談したのが間違いだった。(いつも、思うこと。)

問題を直視せず、とんちんかんな答えが返って、ぼくは、気分が重くなるだけ。

「課長というのは、多忙なので、そんな小さなことまで、かかわっていられない」ともとれる、びっくり発言さえ、そうめずらしくなくなっていた。

ぼくは、会社のことを想像しただけで、気分障害に陥るようになり会社には行けなくなった。

休暇中、ずいぶんとこころをリフレッシュできた。

でも、たしかに、2週間の診断書はもらったけれど、そのあとどうするのか考えると、気分障害がぶり返しそうで、支社の指示のもと、総務部長に相談をしに行った。人権侵害問題が含まれている可能性があるので。総務課長も同席した。

ぼくは、すべて記録を取っているので、しつこいくらい丁寧に事実関係を説明した。

ぼくは、障害者手帳を所持しているので、管理者以外の社員にも「安全配慮義務」の誠実な履行を要求した。

総務部長は、あくまで、中立の立場だというスタンスだ。

しかし、慎重に調査したが、なにもなかったでは済まされない。

納得できる調査結果を報告してもらわなければ、ぼくだって、本気になる。

ぼくが、それで納得するような、おとなしい男だと思ってもらっては困る。

まず、支社を介入させる。

ぼくは、常に医師、弁護士、人権団体と連携を取り合っている。

特に、法曹界の友人は多い。

会社や労働組合の上層部にも、ぼくの同期が偉いさんになってくれているので、心強い。

さて会社は、どう、答えを出すつもりなのか?

 

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女流詩人でいえば、新川和江には、そうとうお世話になっているし、彼女の華やかな作品も大好きだ。しかし、ここに石垣りんという詩人がいたことを忘れてはならない。

およそ、10年前には、すでにこの世のひとではない。

中学校あたりの国語の教科書にも載っていたかも知れない。

彼女には「表札」というディープな代表作がある。

    

      「表札」

 

自分の住むところには

自分で表札を出すにかぎる。

 

自分の寝泊りする場所に

他人がかけてくれる表札は

いつもろくなことがない。

 

病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と

様が付いた。

 

旅館に泊まっても

部屋の外に名前は出ないが

やがて焼き場の鑵にはいると

とじた扉の上に

石垣りん殿と札が下がるだろう

そのとき私がこばめるのか?

 

様も

殿も

付いてはいけない、

 

自分の住む所には

自分の手で表札をかけるに限る。

 

精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。

 

 

どうだろうか?

たましいに迫り来るなにかがある一篇。

この「表札」は、たいてい、学生時代に、一度は見聞きしたりするはずだ。

 

つづいて転載するのは、サンリオ「詩とメルヘン」で特集を組まれたとき、知った作品である。抒情性はあるが、さらりと深い。

 

     「まこちゃんが死んだ日」

 

まこちゃんが 死んだ日

わたしは ごはんたべた

 

まこちゃんが 死んだ日

わたしは うちをでた

 

まこちゃんが 死んだ日

そらは 晴れていた

 

まこちゃんが 死んだ日

みんなで あつまった

 

まこちゃんが 死んだ日

夜は いつもの通り

 

まこちゃんが 死んだ日

では さようなら

 

 

 

この詩が発表されたとき、編集長のやなせ・たかしとぼくはこの詩の凄さについて電話会談している。

『では さようなら』で終わるんだねえ、すごい詩だねえ」って。

この詩は、数ある石垣りんの作品でも、特にイチオシである。

 

 

 

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こどもの頃、母と映画モスラゴジラ(1961年作のリバイバル)を観にいった。東宝チャンピオンまつりなので「巨人の星」「アタックNO,1」とかも同時上映だったと思う。むかしは、ちょっと街に出るのも、一大イベントだった。母は着物に日傘といういでたちで、ぼくは、よそゆきの服を着させてもらった。映画館に入る前に、阪神百貨店でお弁当を買った。その時代、映画館は、出入り自由で、むしろ、時間指定、指定席のほうがめずらしかった。大阪でいえばOS劇場くらいだったかも。「モスラゴジラ」も、途中から入場し、母と弁当を食べながら、今のCG技術でも表現できないくらいの、鬼気迫るモスラゴジラの死闘に、ぼくは熱狂していた。そんな、ぼくを見ながら母はとても満足そうに笑った。

途中から観ているので、「この辺、もう観たなあ」といって、劇場をでる。

むかしは、みんなそんなふうだった。のんびりとした時代だった。しかし、それは、ぼくにととっては最高の贅沢であり、至福の時であった・・・・・。

近畿地方も、先週の土曜日、梅雨入りした。

ことしは、梅雨明け頃に、母の七回忌が。

七回忌を無事に終えて、むし暑い夏を、ちょっと上質のモスラゴジラのTシャツで過ごすのも、ことしは悪くないかもしれない。

プレミアムバンダイ商品・各7400円)

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                                (くんぺいタヌキ)

           
 
            新宿
 
                             東 君平


19歳。

身も心も腹もどん底の日々だった。

学校は途中から行けなくなっているし 仕事も辛かった

ぼくは 新宿の街を歩いていた。

「詩を書いてみたい」

こんなことを考えてみても 何をどう書けばまとまるのか

あせる頭には浮かばなかった。

「小説も書きたい」

それにはまだ 過ごしてきた人生が短いし

必要な知識も用具もない。

「絵もいい」

画廊の前を通ると 今日から誰かの個展が始まったのだろう

パーティをしていた。街はずれに出た。

人通りが極端に減り 野良猫が歩いている。

ぼくは 古びた外灯の前に立って見上げた。

口には さっき手渡されたチラシを丸めて銜えた。

「新宿か」

古びた外灯の錆びた鉄棒に 釘ででも書いたのだろう

下手な字で新宿と書いてあった。

「しんじゅく・・・・か」

この二度の呟きが ぼくの生き方を決めたといってもいい。

ぼくは その日から もっともっと

自分の気持ちを信じて生きてゆこうと思った。

それは 新宿の文字が しんじゆく と読めたからだ。
 
 
ぼくが、創作活動に於いて、いちばん、影響を受けたのは東君平(ひがし・くんぺい)だ。詩人としてである。
画家や童話作家の顔もあるけれど。
特に「新宿」を読んだ時の、感銘は言葉に尽くせない。
涙があふれでて、止まらなかった。
君平さんは1986年12月3日に肺炎のため、この世を去っている。妖精だから、しかたない。
君平さんの結婚にまつわるエピソードをひとつ。
夫人となる英子さんには、許婚がいて、自分とは結婚できないと分かると、将来を悲観して自殺を図った。未遂に終わるが「また、断ってくれてもいいよ。ぼくが、死ねばいいだけなんだから・・・・」。まあ、強引というか、なんというか、脅迫だな、これ。でも、妖精だから、しかたない。英子さんも、君平さんの本の出版を手伝って、心惹かれるものを感じていたのは、確かなようだ。英子さんのお母様の「わたしだったら、君平さんの才能に賭けてみるわ」といったひとことが決め手となり、ふたりは結ばれている。
他にも、自身の詩とメルヘン賞授賞式にも、ノーネクタイ姿・・・・というよりも普段着で現れて、やなせ・たかしにたしなめられたが、これも、妖精だから、しかたない。
とにかく、人間の世界にちょっと遊びに来たという感覚のひとだった。
晩年、やなせ・たかしが君平さんの入院先を見舞った。ドアを開けると君平さんは眠っていたようだが、気配に気づき「ああ、やなせくんか。いま、天国の下見をしていたところだよ」と、いたずらっぽく、君平さんは笑ったそうである。それが、君平さんとの最後になったって。

 やっぱり、君平さんって、妖精だったんだ。

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もはや、会社には、なんの未練もない。

ぼくは、すこし、にやりと笑ってみせて、この相棒と今夜、この街をでる。

よどみきったこの街を。

深い夜をぶっ飛ばす。アクセルを踏み込んで、ハイウェイを流星のように、風のように、ひかりのように疾走する。

山下達郎なんかを、ガンガン、かけながら。

街から何100kmも飛ばし続けて、相棒が、力尽きたら、そこが、ぼくの暮らすべき場所だ。

空と海だけみつめて、生きていく場所だ。

・・・・・相棒と出会ってから、そんな妄想を抱くようになった。

まあ、ぼくは、言わずと知れた「小市民」だから、あと数年は、会社にしがみついて生きていくだろうけれど、相棒は夢を与えてくれる。人生なんて、自分の意思で簡単に、変えられることを、おしえてくれる。人生なんて、むずかしくないよと、おしえてくれる。