アカデミー国際長編映画賞に日本映画の「ドライブ・マイ・カ-」(濱口竜介監督)が選出された。
以前は「アカデミー外国語映画賞」と呼ばれていた。
つまり、英語圏以外の世界中の映画から選ばれる。
日本作品では、2008年の『おくりびと』(滝田洋二郎監督)が受賞している。
1975年には日本人監督である黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』が受賞しているが、本作はソビエト連邦作品である。
長きにわたるアカデミー賞の歴史の中で、アカデミー外国語映画賞を獲得した、ぼく自身が忘れられない映画を3作品紹介させていただく。
あらすじについては、正確さを期すため、一部映画資料から抜粋しているものもあるが、ご了解願いたい。
「フェリーニの道」
フェデリコ・フェリーニ監督作品(1956年度・イタリア)
自他共に認めるフェリーニの代表作。
風景がわびしく、ニーノ・ロータの音楽が切ない。
旅芸人のザンパノ(アンソニー・クィーン)は体に巻いた鉄の鎖を切る大道芸を売り物にしていたが、芸のアシスタントだった女が死んでしまったため、女の故郷へ向かい、女の妹で、頭は弱いが心の素直なジェルソミーナをタダ同然で買い取る。ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)はザンパノとともにオート三輪で旅をするうち、芸を仕込まれ、女道化師となるが、言動が粗野で、ときに暴力を振るうザンパノに嫌気が差し、彼のもとを飛び出す。
あてもなく歩いた末にたどり着いた街で、ジェルソミーナは陽気な綱渡り芸人・通称「イル・マット」の芸を目撃する。追いついたザンパノはジェルソミーナを連れ戻し、あるサーカス団に合流する。そこにはイル・マットがいた。イル・マットとザンパノは旧知であるうえ、何らかの理由(作中では明示されない)で険悪な仲だった。イル・マットはザンパノの出演中に客席から冗談を言って彼の邪魔をする一方で、ジェルソミーナにラッパを教える。
ある日、イル・マットのからかいに我慢の限界を超えたザンパノは、ナイフを持って彼を追いかけ、駆け付けた警察に逮捕される。この事件のためサーカス団は街を立ち去らねばならなくなり、責任を問われたイル・マットとザンパノはサーカス団を解雇される。ジェルソミーナはサーカス団の団長に、同行するよう誘われるが、自分が足手まといになると感じた彼女は街に残ることを選ぶ。それを知ったイル・マットは、「世の中のすべては何かの役に立っている。それは神さまだけがご存知だ。ジェルソミーナもザンパノの役に立っているからこそ連れ戻されたんだ」と告げ、ザンパノのオート三輪を駆って、彼が留置されている警察署へジェルソミーナを送り届け、立ち去る。釈放されたザンパノは、イル・マットが勝手にオート三輪を使ったことをさとり、渋い表情を見せる。
ジェルソミーナとザンパノは再び2人だけで大道芸を披露する日々を送る。ある日ザンパノは、路上で自動車を修理するイル・マットを見かけ、彼を殴り飛ばす。自動車の車体に頭をぶつけたイル・マットは、打ち所が悪く、そのまま死んでしまう。ザンパノは自動車事故に見せかけるため、イル・マットの自動車を崖下に突き落とし、ジェルソミーナを連れてその場を去る。それ以降、ジェルソミーナは虚脱したまま何もできなくなり、大道芸のアシスタントとして役に立たなくなる。ザンパノはある日、居眠りするジェルソミーナを置き去りにする。
数年後。ある海辺の町で鎖の芸を披露するザンパノだったが、年老いた彼の芸はかつての精彩を欠いていた。ザンパノはそこで、地元の娘が耳慣れた歌を口ずさんでいるのを聞く。それはかつてジェルソミーナがラッパで吹いていた曲であった。ザンパノはその娘から、ジェルソミーナと思われる女がこの町に来て、娘の家にかくまわれ、やがて死んだことを聞き出す。いたたまれなくなったザンパノは酒場で痛飲し、大暴れしたあげく、町をさまよう。海岸にたどり着いたザンパノは、砂浜に倒れ込み、嗚咽を漏らした。忘れられないラストシーンだなあ。
「映画に愛をこめて アメリカの夜」
フランソワ・トリュフォー監督作品(1973年度・フランス、イタリア合作)
「アメリカの夜」とは業界用語で、夜間のシーンを、昼間に撮影する技法のこと。
この映画は「映画撮影風景」を映画にしている「映画内映画」。
アイデアの勝利でもある。
あなたの「映画愛」を感じるよ、トリュフォー。
トリュフォー自身が監督役で熱演しているのも見物である(写真・上)。
それと、大量の泡を使って、雪の街を作り上げていく映画製作マジックには驚いた。
ニースにあるオープンセットでは『パメラを紹介します』という映画の撮影が大詰めを迎えている。
エキストラを大勢使った場面では、アルフォンス(ジャン=ピエール・レオ)という若い男優とアレクサンドル(ジャン=ピエール・オーモン)というベテラン男優がフェラン監督(フランソワ・トリュフォー)の指示の下、何度もリハーサルを繰り返している。
フェラン監督は左耳が難聴で、いつも補聴器をつけている。監督の仕事は忙しく、各部門のスタッフからの質問や確認を手早く片付けていく必要があったからだ。
映画撮影では色々と大変な事が勃発するが、最も厄介なのは俳優のトラブルだ。
アレクサンドルと親しかったセブリーヌ(ヴァレンティナ・コルテーゼ)というイタリア人女優がキャスティングされているが、彼女はアル中で物忘れがひどく、セットの見えない所にセリフを貼っておかないと演技もできない。段取りも何度も間違えるために撮影に手間がかかり、フェラン監督を悩ませる。
監督はそのせいか、撮影中はよく悪夢を見る。それはローティーンの少年が映画館から『市民ケーン』のスチール写真を盗む、というものだった。
年若いアルフォンスはさらに厄介だった。撮影中は長期間に渡って同じホテルに泊まり込むため、彼は交際中の女性リリアンを連れてきていた。しかも監督に無理を言ってスプリクトガールの職も与えてもらう始末。
しかし嫉妬深く子供のようなアルフォンスに飽き足りないリリアンは、撮影に参加したスタントマンと駆け落ちしてしまう。アルフォンスは大きなショックを受け、自分の出演する場面の撮影もできず、自室に閉じこもる。
そんな困難な状況を救ったのは、ハリウッドから呼ばれてきたスター女優のジュリー(ジャクリーン・ビセット)だった。リアルタイムで観れなかったが、ジャクリーン・ビセットは光ってる。
「ブリキの太鼓」
フォルカー・シュレンドルフ監督作品(1979年・西ドイツ)
ちょっと、不思議な映画。不条理というか、何というか。
アイロニーを含んだ、時代背景、社会風刺が、スパイシーに効いている。
製作国が西ドイツというのも興味深い。
精神病院の住人である30歳のオスカル・マツェラートが看護人相手に自らの半生を語るという形で物語は進行していく。体は幼児で、精神年齢は成人のオスカルは、冷めた視点で世の中を見つめ、その悪魔的所業で、自分を愛してくれている周囲の人間を次々に死に追いやる良心を持たない人間として描写されているが、最終的に自分を保護してくれる人間がいなくなったことに気が付き愕然とすることになる。
オスカルは誕生時に既に知能は成人並みに発達をとげ、かつ自分の成長を自身の意思でコントロールする能力を備えていた。物語は1899年のジャガイモ畑における祖母の妊娠に始まり、1924年のオスカル誕生に至る。オスカルは自分が成長することを恐れていたが、父親であるアルフレートが彼が3歳になった時、ブリキの太鼓を買い与えるとの言葉を聞き、3歳までは成長することにした。3歳の時、父親が地下室に降りる床の扉を閉め忘れたことを勿怪の幸いに、故意に地下に転落し、大人たちにそれが原因で成長が止まったと信じ込ませることにした。オスカルの母親であるアグネスは何かというとこのことで夫であるアルフレートの不注意を責め、それにより夫婦間に亀裂が生じるようになる。オスカルは声帯から発する超音波でガラスを破壊する能力を身につけ、様々な問題を起こしていく。息子の奇行に悩み、その将来を慮ったアグネスは、精神を病み、過食症となり、自ら命を絶つ。
局外者であるオスカルの眼を通し、ナチ党政権前後におけるダンツィヒ自由市の小市民的心性、戦前・戦中・戦後の遍歴などを描く。