ロシアがウクライナに軍事侵攻してから、思うところあって、日本チャップリン協会会長の大野裕之著「ヒトラーとチャップリン」を読み返した。
チャップリンの闘いを記した貴重な記録書である。
喜劇王と独裁者。チャップリンがヒトラーに闘いを挑んだノンフィクッションである。
わずか4日違いで生まれたチャップリンとヒトラーは、長きにわたって壮絶な闘いを繰り広げた。しかし、ふたりには多くの共通点があった。小柄でチョビひげ、そして映像を駆使して大衆を熱狂させるプロパガンダ術。チャップリンは民主主義を、ヒトラーはファシズムを訴えた。チャップリンは後にこう語っている。「ひとつ間違えば、私たちは逆になっていたかもしれない」と。
映画「独裁者」・・・これこそがチャップリンがヒトラーに投下した爆弾だった。
独裁者ヒンケルに取り違えられた気弱なユダヤ人の床屋が、大群衆に向かって愛と平和の大切さを訴えかける……。チャップリンの映画『独裁者』(1940年公開)のラスト6分間に及ぶ演説は、映画史に残る名場面として心に焼き付いている。
だが、当初のラストシーンは違っていた。
ユダヤ人もドイツ兵も一緒になって、ダンスをして終わるハッピーエンドという設定だったが、このシーンの撮影風景はカラーフィルムで残っていて、至極不機嫌そうにメガホンを取るチャップリンの姿が記録されている。「これでは、弱い!伝わらない!」と。
それで、彼は、全面にシナリオを書き換えて、トーキー嫌いのチャップリンが平和への思いを6分間しゃべりまくる名場面が生まれた。
しかし、ヒトラーの脅威が世界を席巻しつつあった当時、『独裁者』の製作は大きな困難に直面することになった。総統を笑いものにする映画の製作に反発したドイツ当局が、新聞・雑誌による反対キャンペーンや、外交ルートを通じた妨害活動を展開したばかりではない。ドイツを刺激したくないアメリカやイギリスの政府当局、海外での興行を危ぶむ映画業界内部からも、製作中止をもとめる声が上がっていた。だがそうした逆風のなかでも、チャップリンの決意は揺らがなかった。迫りくる全体主義の恐怖のなか、この希代の喜劇俳優は笑いとユーモアを武器にして、映画というメディアの戦場でもう一人の比類なき「俳優」――「救世主」のイメージを演じたヒトラー――に対決を挑んだのだった。チャップリンの草稿や製作メモからは、何度も脚本の推敲(すいこう)を重ね、際限なく撮影をくり返しながら、納得のいく表現をもとめつづける厳しい姿勢が浮かび上がってくる。
冒頭にも申し上げたが、チャップリンとヒトラーの宿命的な関係には驚かされる。わずか4日違いで生まれ、同じちょび髭をつけ、メディアの寵児(ちょうじ)として台頭した二人の人生は、『独裁者』の製作をめぐっても必然的としかいいようがない形で対峙しあう。チャップリン初の本格的トーキー映画である本作の撮影は第二次世界大戦勃発の直後、ラストの演説の撮影はなんとヒトラーのパリ入城の翌日に開始されたという。チャップリンとヒトラーはともに映像メディアが産んだ巨大なモンスターとして、光と影に例えられる関係にあったといえるかもしれない。イメージを武器に強大な権力を握った独裁者と、愚直なヒューマニズムでこれに立ち向かった喜劇王。
チャップリンは、この映画でヒトラーの最大の武器であった民衆を魅了する熱狂的な演説術を、その姿を、おおいに茶化し、笑いものにし、こき下ろした。その結果、ヒトラーは、人前で、あの熱狂的な演説をすることはなくなった。
1945年ソ連によってベルリンが陥落し、ヒトラーは自殺に追い込まれるが、「自分の理想は敗れた。しかし、100年も経たないうちに新たなファシズムが台頭するだろう」と遺している。
戦後、アメリカにレッドパージ(共産主義者の追放)の嵐が吹き荒れた。
ハリウッドにも容赦なくレッドパージの波は押し寄せた。
チャップリンは船で旅の途中だったが、共産主義者のレッテルを貼られてたチャップリンはアメリカには入国できず、生まれ故郷のイギリスに帰った。
チャップリンの名誉が公に回復したのは1972年米アカデミー賞の授会場会場でのことだ。チャップリンは、無口だった。
ヒトラーが死んで77年、ロシアのウラジーミル・プーチンがファシズム(全体主義体制)を背景に牙を剥き出しにしてウクライナに軍事侵攻した。ヒトラーの予言もまた、嘘ではなかった。