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女流詩人でいえば、新川和江には、そうとうお世話になっているし、彼女の華やかな作品も大好きだ。しかし、ここに石垣りんという詩人がいたことを忘れてはならない。
およそ、10年前には、すでにこの世のひとではない。
中学校あたりの国語の教科書にも載っていたかも知れない。
彼女には「表札」というディープな代表作がある。
「表札」
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことがない。
病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。
旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼き場の鑵にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるのか?
様も
殿も
付いてはいけない、
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
それでよい。
どうだろうか?
たましいに迫り来るなにかがある一篇。
この「表札」は、たいてい、学生時代に、一度は見聞きしたりするはずだ。
つづいて転載するのは、サンリオ「詩とメルヘン」で特集を組まれたとき、知った作品である。抒情性はあるが、さらりと深い。
「まこちゃんが死んだ日」
まこちゃんが 死んだ日
わたしは ごはんたべた
まこちゃんが 死んだ日
わたしは うちをでた
まこちゃんが 死んだ日
そらは 晴れていた
まこちゃんが 死んだ日
みんなで あつまった
まこちゃんが 死んだ日
夜は いつもの通り
まこちゃんが 死んだ日
では さようなら
この詩が発表されたとき、編集長のやなせ・たかしとぼくはこの詩の凄さについて電話会談している。
「『では さようなら』で終わるんだねえ、すごい詩だねえ」って。
この詩は、数ある石垣りんの作品でも、特にイチオシである。