f:id:tigerace1943:20200406114238j:plain


  2000年代の初めに、「親守唄・歌会」というイベントがあった。

最初の2回だけ、 なら100年会館で、あとは、やまと郡山城大ホールに会場が移った。

「親守唄」は、まあいえば「子守歌」の逆。各自治体でも、「親守歌」「親守うた」

「親守詩」など似たようなイベントがあったようである。

ぼくは、この「親守唄・歌会」に第1回、第3回、第4回と出場している。

「作詩の部」と「作詩・作曲の部」があって、まず、詩を書くものは、「作詩の部」に作品を送る。

わりとシビアな審査があって、審査を通過した作品は、さまざまな媒体で公表されて、その詩に曲をつけてくれるのを待つのである。曲がつかなければ、その時点でゲームオーバ。賞を伴わない詩の朗読のみの選にまわされるまわされる。 運良く曲がついて審査を通ると「作詩・作曲の部」入選となり、TV中継も入る「親守唄・歌会」の出場権を得られ、賞レースにも参加ができる。賞を獲得するには、詩はもちろんだが、音楽性、歌唱力も審査のおおきな対象となる。ぼくは、第3回で「夕暮れの堤防で」という作品で優秀賞を作曲者と共に受賞したが、今回、掲出の作品では、何ももらえなかった。でも、個人的には、すっごくいい曲がついて、歌唱も申し分なく、事前アンケートでは、大賞の最有力候補だった。

母の記憶と共に、懐かしく懐かしく思い入れのある作品である。

現在「親守唄・歌会」は『介護の日』というイベントの中のひとつのコーナーとして、規模も縮小され、名前だけが残っている。                                

 

                                    季節と出会うたびに 

 

今年も また

春を 迎えることができたと

母は 深く目を閉じて

てのひらを

合わせている

 

けれど 母は

ひとつの季節と

出会うたびに

いつも 何かを

ひとつずつ失ってゆく

 

こんどは

いちだんと

耳が 遠くなったという

 

人のはなし声や テレビの音が

聞き取れないという

 

心配ないさ

それなら

ぼくが 母の

「耳」となろう

 

落ち葉の秋には

母の「目」となったように

星降る夏には

母の「足」となったように

 

ぼくは 母に語りかける

「母さん ぼくが

ずっと 守ってあげるからね。

 母さんが ぼくを

守りつづけてくれたように」

 

 

ぼくの言葉は

母の耳に 届かないことは

わかっているけれど

 

春の陽だまりの中

母は からだを

小さく丸めて

ただ 熱いお茶を飲んでいる